恵奈(Ena)の誕生


2000年12月27日、私たちにとっての二人目の娘、恵奈(Ena)が誕生した。 一人目の娘、真弥(Maya)が産まれた時に、そのとき最良と考えられた 名前を付けてしまっていたので、次の子の名前はどうしようかと悩むに違いない、 との思いから、早くから先生に性別を教えてもらっていた。その甲斐あって、 誕生する遙か前から名前は恵奈と決まっていた。3才になる真弥までが 保育園で「まやノ、アカチャンハ、えなッテイウネン」と公表する始末だった。 この恵奈と言う名前はーー良い名前という根拠は主に「字画占い」であると言うのを 差し引いてもーー真弥に勝るとも劣らぬ、良い名前だと自負している。 真弥の時と同様、英語でも発音しやすい音、それでいて、日本語でも柔らかい音 を心がけてつけた。また漢字は画数による制限のため、習字で真っ黒につぶれてしまい そうな、字になってしまったが、それでも、漢字の意味が女の子にふさわしいように との配慮も欠かさなかった。

私は、12月13日に留学先のサンタバーバラを発ち、14日には日本に帰国した。 帰国直後、真弥が嘔吐の風邪を引いたのに続き、久美も真弥も 出産の当日までとうとう咳の風邪をこじらしたままであった。 久美は私が帰ってきたことにより、精神的にふにゃふにゃになり、 私も日本ではプウたろうなので、家族共々だらけて、 真弥の保育園がかろうじて我々の生活のリズムを保つという状態だった。 真弥の出産の時には、数日おくれたという経験から、私は恵奈も予定日の27日には 産まれないと高をくくっていた。実際、22日の検診の時にも、それ以降も、久美は 全く産気づいた様子がなく、久美自体も本当に私が再渡米してしまうまでに出産できる のだろうかと気をもみだしていた。ところが26日の夕食後、久美は足が冷えているのを 感じたらしく、普段はたたずむことのない部屋の隅に、毛布をかぶって座り込んだ。 私は、また私の言葉が彼女を不機嫌にさせたのかと思い、話しかけたが、どうやら 精神的なものが原因ではなさそうだった。その後、私が真弥を風呂に入れ、久美も それに続き、真弥を寝かしつけた。真弥が寝た後、私たちはTVを見ていたが、 23時頃から久美が、生理痛のような痛みを感じると言い出した。間隔を計ると約15分 おきであった。二人とも半信半疑のまま、24時くらいまで様子を見た。久美は まだ確信が持てず、病院に行くかどうか迷っていた。とりあえず、腹ごしらえに うどんだけ食べようと言うことになり、私が下手なだしをとり、うどんを作った。 その後、痛みは周期的に来るのだが、確信が持てない上に寒さも加わって、とうとう 久美は夜中の1:00頃に布団に入った。私は、久美の痛みの周期をはかるという 名目の下、出産というシチュエーションには全くふさわしくない、 売り出されたばかりの大江健三郎に没頭し、目の疲れを感じて2:00に コンタクトレンズを取り、床についた。

久美が私を揺すり起こしたのは3:30頃だった。久美は「プチンという音がしてお印が あった」といった。病院に電話をして、VBAC(Vaginal Birth After Caesarian birth) である旨を伝えると、すぐに入院するように指示された。私はタクシー会社に電話を した。あらかじめイエローページから抜き出していた3社のうち、上から順に電話をし、 2番目の昭和交通で電話がつながった。妊婦を運んでほしい旨を伝えると、オペレーター は自社の車が手配できないのに、親切にも他社の車を用意してくれた。 真弥を起こすわけにはいかないので、久美は荷物を持って一人で病院へ急いだ。 私は、もう一度パジャマに着替え、真弥の横で眠りについた。 朝方6:00頃私は何とも悲しい夢を見て、泣いている自分に気づいた。それは、父に自分 の生き方を涙ながらに訴えている夢であった。25を過ぎた頃からずっとであるが、 どうやら私は悲しみや安堵という精神的な刺激を現実の世界で受けると、それが夢で 涙に転換されて、排出されるようである。夢の内容は現実の出来事とはたいてい 異なり、「あなはれ」と感じ入る夢や、身内の不幸の夢で泣くのである。 この日は、おそらく、二人目の子供がとうとう産まれるという安堵と興奮の刺激が、 夢での涙に変わったのだろうと思う。 涙を拭い、トイレへ立ち、その後、時間を確認してもう一度布団に入った。 6:45には腕時計のアラームが鳴っていたが、7:00にセットされている目覚ましを 待つべく、うとうとともう一度眠りについた。がばっと起きたのは8:00だった。

即座にカーテンを開け、日の光を部屋に入れ、真弥を起こした。大急ぎで朝食の用意を している途中に、真弥の所へ戻り、真弥の前に座り込んで、話をした。「昨日の 晩、ママはお豆さんが産まれそうだから、病院へ行ったよ。真弥はママがいなくても 我慢できるね。」「ウン、まやハ、ガマンデキルネン。」最近しっかりしてきたとは いえ、実際にママがいなくなった状態でも、きっちりと状況をわきまえて返事を する真弥を見て、私は少しの驚きと共に安堵した。真弥を保育園へ連れて行き、 家へ戻り、母に真弥を夕方迎えに行くようにお願いし、実家で必要な真弥の荷物を 作った。臨戦態勢を整えるのに時間がかかったが、どうにか10:00にはマンションを 出ることができた。自転車で尼崎医療生協病院へ着き、産婦人科の病棟で看護婦さんに 状態を聞いた。内心、もう産まれたのではないかを非常に焦っていたのだが、 「ほとんど進んでません。」との返答に、ひとまずほっとして、陣痛室へ入った。 久美は、「遅い」と言いたげな顔で何時に真弥を連れて行ったか聞いたので、 私はこの大切な朝に寝坊をしたことを告白せざるを得なかった。幸い5分ごとの痛みは 久美の不満をすぐに吹き飛ばしてくれたのだが。

時間の経過がこれほど早いものだと感じたのは久しぶりであった。3、4分おきの陣痛 が早く1、2分おきにならないものかと思いながら、気づくと13:00であった。 陣痛が押し寄せるたびに私はぎこちない手つきで久美の腰をさすっていたのだが、 助産婦さんが私に代わってくれ、食事に行くように合図した。今のうちだということで あったので、まだまだ分娩室まで遠いと判断し、病院を出た。病院は尼宝線とJR神戸 線沿いの道の交差点に位置していた。開けている方角は南、東、北であり、 JR沿いの道を行くと、2ブロックほどでFamily Martがあることを知っていた。 が、私は尼宝線沿いにそれより近いコンビニエンスストアーがあるに違いないと思い 尼宝線を北上した。しかし、行けども行けどもコンビニはなく、とうとうマクドナルド に出くわした。私は、バリューセットを買い、病院に戻り、待合室でそれらを食べた。 後でわかったことだが、尼宝線を南に行っていれば、目と鼻の先にコンビニがあったの だった。焦っているときには、何をしても失敗するものだと、改めて思い知った。

昼食後、陣痛室に戻っても、状態はあまり変わったようには見えなかった。 ただ、周期は2、3分おきでも、痛みはどんどんと増しているようであった。 久美も私も寝不足のため、痛みがやむと、うとうとと眠り、久美が呼吸法を始めると 私が腰をさすり、呼吸のペースメークをするという状態が続いた。私は久美の腰を さすりながら、以前、友人と話をしたことのある、「第三者的な考え方」に ついて、思いを巡らしていた。「第三者的な考え方」とは、私の性格を言い当てた もので、私はどうも、物事を他人事のように考えるというのだ。それが私の人生に 関わる重要なことであっても、あたかも他人事のように考え、行動してしまう。 それは、時には冷静で最良の判断をもたらすが、時には冷淡な言動が人を傷つけて しまうのだ。同じような指摘は結婚前に久美からも受けていたが、その友人とは その是非を延々と議論した。私は痛みに耐える久美の顔を見ながら、男は決して 人間の繁殖活動の「第一人称」にはなれないと感じた。男はよくて「第二人称」 なのである。そして、この認識を通じて冷淡と言われる自分を自己擁護していたのだ。

15:30頃、あまりの痛みのため、私に寄りかかりながらベッドに座るという体勢を 続けていたせいで、緊急手術に備えてつけていた点滴が腕に滞り、 腕が腫れ上がってしまった。看護婦さんを呼び、点滴をもう一方の腕に付け替える ことになった。その作業の間も陣痛は容赦なく押し寄せ、また看護婦さんも不慣れな せいもあってかーー実際、看護婦さんと助産婦さんの二人プラス私で事に当たった のだがーー助産婦さんに腕にささった針をぐりぐりほじくり回された挙げ句、 ようやく点滴が右腕に移った。助産婦さんは、もう分娩室に移ろうかと言い、私たちは 分娩室に移った。陣痛の痛みに歩くのもぎこちない久美は分娩室のベッドにどうにか 這い登った。今回の出産は子宮破裂のリスクを伴うVBACなので、立ち会い分娩は 許可されず、私は16:20頃に分娩室を出た。

待合室では、「第三者」が再びふさわしくない小説を読み始めた。寝不足のため目に 痛みを感じ、うたた寝をしては、起きて読み進めるという状態だった。分娩室を出た ときには30分くらいで、赤ん坊が誕生するだろうと思っていたのだが、時計は17:00を 過ぎていた。私は少し遅いと思つつ、遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえるたびに、 うちの子が取り出されたのではないかと期待し、裏切られた。そのうち時計は18:00を 過ぎ、またもや旋回異常で帝王切開に切り替わったのではないかとか、子宮破裂した のではないだろうかと心配し始めた。このころには、気を紛らせるために小説を 読んでいる自分を認めざるを得なかった。祈りたい気持ちでも、最近の宗教に関する 私の言動の手前、素直に祈ることもできず、ただただ、小説を読み進めていた。

18:20頃、看護婦さんが陣痛室からドアを開けて「橋本さん」と呼ぶ声。「はい」 と立ち上がると、「おめでとうございます」という言葉を聞いた。安堵しながら 新生児室へ向かい、でてきたてーーといっても誕生は18:02だがーーの赤ん坊を見た。 またもや鼻が開いていてると感じたが、それ以上に無事誕生した事に感謝し、 出そうになった涙をかろうじて抑えた。恵奈が久美のお腹に授かって以来、 久美には一生で最もつらい時期なのではないかと 思われるくらいの不幸が続いていた。不幸な出来事に加えて、 夫である私も自分の夢のためという大義名分のもとカリフォルニアに単身留学 していた。これも彼女の精神的負担を増大したのは疑いない。とにかく、 誰もが赤ちゃんは本当に大丈夫かと心配するくらい、彼女の周りには ごたごたが絶えなかった。そのせいもあって、元気に泣く恵奈の顔を見ると、 この子の誕生によりいままで久美が絶えてきた不幸、精神的苦痛が清算されるとの 思いがこみ上げてきたのだ。

Ena

恵奈をひとしきり見、体重2870g、身長50cmという数字をメモした後、私は満足して 待合室に戻り、再び小説を開いた。しばらくして 久美はどうしたのかと思った。赤ちゃんが18:02に産まれたのに、20分以上経った今、 まだ久美が出てこないと言うことは、やはり帝王切開だったのだろうか。再び心配に なり、看護婦さんにどの様な出産だったか聞いた。吸引ではあったが経膣分娩である ことを聞き、とりあえず安心した。しばらくして、再び呼ばれ、分娩室に通された。 久美は、痛みの余韻があるものの安堵の表情で私に応えた。その後、恵奈におっぱいを 飲ませるのを手伝ったが、真弥の時と同様、赤ん坊にあらかじめプログラムされている おっぱいを吸う口の動きに、人間のたくましさを感じた。 その後、久美が「パパが上手に腰をさすってくれたので、たすかった」 とめずらしく私をほめてくれた。もしかしたら第二人称にもなれていないのでは、 という思いがかすかにあった私は、その言葉に大変救われた思いであった。 恵奈を新生児室に預けたあと、久美は私が口に運ぶ食事をおいしそうに食べた。 食後、点滴が終わるのを待ち、 久美は病室へ移った。一通り荷物を運び、私はマンションに戻った。 私も久美も待望の2番目の娘が現実のものとなり、とても幸せだ。 真弥も妹ができ、また一段と成長する事だろう。そしてなにより、「第一人称」 になりうる子供を二人もてたことにただひたすら感謝するばかりだ。


もくじに戻る


2000.12.29, Copyright (C) Tadao Hashimoto